チョコレートの歴史

チョコレートは発酵、焙煎、粉砕を経たカカオの実から作られる。アメリカ先住民族はカカオの粉末を磨り潰したものを入れた液体にバニラや唐辛子を混ぜて飲んでいた。ヨーロッパの人々はここから唐辛子を外し、砂糖や牛乳を入れて甘味を加えた。その後現在の棒状のチョコレートを作る方法を編み出した。 チョコレートを使用した菓子は多数あり、世界で最も人気で万人に知られた味の1つとなっている。

前史

紀元前2000年ごろから、中央アメリカ及びメキシコ南部ではカカオが栽培されていた。15世紀までには、カカオは貨幣として流通するほど珍重された。アステカ民族の間では税あるいは貢ぎ物としても納められていた。当時の中央アメリカでは、カカオを粉にしてコーンミールや唐辛子などを入れ、水や湯に溶かしたものを主に嗜好品として、また薬用や強壮用として飲用していた。16世紀まではカカオの実から作られた飲み物はヨーロッパに知られることはなかった。

近世ヨーロッパ

クリストファー・コロンブスがカカオの実をスペインのフェルディナンドとイザベラに見せるためヨーロッパに持ち込んだが、広めたのはスペインの修道士である。カカオはスペイン人のアステカ征服によりヨーロッパにもたらされ、王侯貴族の間で好評を博したのみならず、庶民も飲むようになった。カカオの取り引きが最初にあったと記録されているのは1585年にベラクルスからセビリアへの積荷としてであった。やがてヨーロッパでは特有の苦味を打ち消すため砂糖や牛乳を加え、唐辛子の代わりに同じくメキシコ由来のスパイスであるバニラを入れるようになった。

スペインでのチョコレートが普及から間もなくしてスペイン人はアフリカ人の奴隷を使いカカオのプランテーション栽培を始めるが、当初はチョコレートはヨーロッパではスペインのみでの普及だった。しかし、フランス王ルイ13世がスペイン王女アナ・マリーア・マウリシアと結婚した時、チョコレートを好むアナが嫁入りの際に持参したため、フランスにチョコレートがもたらされた。ルイ13世の息子ルイ14世も1661年、チョコレート好きのスペイン王女マリア・テレサと結婚したため、フランスでは上流階級からチョコレートが広まった。マリア・テレサはまた、チョコレートを飲む道具一式と、チョコレート専門の料理人(後にいうショコラティエ)を連れて輿入れした。17世紀後半にはイギリスにも伝わり、ロンドンで最初のチョコレートハウスが1657年に開店した。1689年には医師で収集家のハンス・スローンがジャマイカでミルクチョコレートドリンクを開発した。当初は薬剤師向けに作られていたが、その後キャドバリー兄弟に権利を売却した。苦い飲み物から甘い飲み物に変化したことで、チョコレートは17世紀頃にはヨーロッパの王侯貴族の間でカカオはぜいたく品となっていた。

近代ヨーロッパ

何百年もの間チョコレートの製造工程は不変だったが、産業革命の到来により硬く甘いキャンディに生命を吹き込む多くの変化が起きた。18世紀には固く長持ちするチョコレートの製造の補助となるココアバター(カカオバター)を絞り出すための機械式ミルが作られてはいた[11]が、大規模に使用されるようになったのは産業革命以降である。産業革命の熱気が冷めてから程なくして、チョコレート会社は新しく作られたチョコレート菓子の販売のために、我々が頻繁に目にするような広告や宣伝を行うようになった。製造工程の機械化により、チョコレートは世界中で消費されるようになった。菓子材料としての利用も同時期に始まっており、文献上では1719年にコンラッド・ハッガーが残した料理手帳に「チョコレートトルテ」が確認できる。

さらに1828年にはオランダのクーンラート・ヨハネス・ファン・ハウテン(英語版)(バンホーテンの創業者)はカカオ豆からココアパウダーとココアバターを分離製造する方法の特許を取得した。それまでのチョコレートは濃密で、水なしでは飲めないものだったが、これにより口当たりがよくなり普及が進んだ。さらにファン・ハウテンはアルカリを加えることで苦味や酸味を除くダッチプロセスをも開発し、現代的なチョコレートバーを作ることも可能になった。

1847年にイギリス人のジョセフ・フライ(J・S・フライ・アンド・サンズ(英語版)社)が初めて固形チョコレートを作り、1849年にキャドバリー兄弟により引き継がれたともされている。ただしこれはまだ苦いものだった。初の固形チョコレートがドレによりトリノで作られ、1826年からピエール・ポール・カファレル(英語版)が大規模に売り出したものという説もある。1819年にはF.L.ケイラーが初めてスイスにチョコレート工場を開設した。

スイスのろうそく職人ダニエル・ペーターは義父がチョコレート会社を経営していたことからチョコレートに携わるようになり、1867年からチョコレートの苦味をまろやかにするために牛乳を入れることを試行錯誤し始め(溶けたチョコレートに水分を混ぜると、チョコレートの中の砂糖が水分を吸収しココアバターの油と分離するためにボソボソになり食感が悪くなる)、粉ミルクを入れるという解決方法を発明し、1875年にミルクチョコレートの販売を始めた。またミルクチョコレート製造には、牛乳から水分を抜く必要があったが、ダニエルは隣りに住んでいたベビーフード生産業者のアンリ・ネスレ(ネスレ創業者)と協力して研究を行った。またロドルフ・リンツはチョコレートの粒子を均一かつ細かくし、滑らかな食感を出すのに必要なコンチングを考案した。

こうした発明によって19世紀後半にはチョコレートは家族的な小企業や職人による生産から大企業による工場での大量生産へと移行していった。スイスのネスレ社、リンツ社、カイエ社やイギリスのキャドバリー社、ロウントリー社、アメリカのハーシー社などの大チョコレート企業が誕生し、安定して大量生産された規格品チョコレートの供給によりチョコレートの価格は下がり、一般市民が気軽に楽しめる菓子となっていった。一方でベルギーやフランスなどを中心にショコラティエによる高級チョコレート店も多数存在している。大チョコレート企業は1960年代以降買収を繰り返しながら巨大化していく一方、高級チョコレート店の職人によるチョコレートにも大きな需要があり、この二つが日常一般市民の食しているチョコレート生産のほとんどを占めている。

日本での歴史

日本が、チョコレートという食べ物を知ったのは、幕末の頃である。1858年にヨーロッパへ派遣された文久遣欧使節がチョコレートの工場を見学している。また、記録は残っていないが、1613年、慶長遣欧使節がヨーロッパに赴いた時期は、チョコレートを飲む習慣がヨーロッパの上流階層に広がっていた時期と重なるため、これに参加していた支倉常長たちが、初めてチョコレートを口にした日本人ではないかという説もある。

日本初の国産チョコレートは、風月堂総本店の主、5代目大住喜右衛門が、当時の番頭である米津松蔵に横浜で技術を学ばせ、1878年に両国若松風月堂で発売したものである。新聞に掲載した日本初のチョコレートの広告には「貯古齢糖」の字が当てられていた。 カカオ豆からの一貫生産は、1918年、森永製菓によって開始された。こうしてチョコレートは高級品から庶民の菓子となり、1920年代から30年代にかけて日本人の間に急速に普及した。当時のチョコレート菓子は、玉チョコ(いわゆるチョコボール)や棒チョコという形状が一般的であった。

第二次世界大戦の影響により、日本では1940年12月を最後にカカオ豆の輸入は止まり、あとは軍用の医薬品(常温では固体で人の体温で溶けるココアバターの性質から座薬や軟膏の基剤となる)や食料製造のために、指定業者にだけ軍ルートでカカオ豆が配給されるのみとなった。

「日本チョコレート工業史」によると、1941年に日本チョコレート菓子工業組合と日本ココア豆加工組合からなる「ココア豆代用品研究会」により、ココアバターの代用品に醤油油(醤油の製造過程の副産物。丸大豆に含まれる油。よく誤解されるが醤油そのものではない)、大豆エチルエステル、椰子油、ヤブニッケイ油などの植物性油脂の硬化油、カカオマスの代用品に百合球根(ユリの鱗茎)、チューリップ球根、決明子(エビスグサの種子)、オクラ豆、脱脂大豆粉、脱脂落花生粉などを原料にした代用チョコレートが考案された。

オランダ領東インドを占領した日本軍は、カカオ豆プランテーションや、ジャワ島の製菓工場を接収し、森永製菓や明治製菓にチョコレート製造を委嘱し、陸海軍に納入させた。また軍用に熱帯で溶けないチョコレートも開発された。

1945年に日本が第二次世界大戦で敗れると、アメリカの進駐軍を通じて大量のチョコレートが日本にもたらされた。当時の子供たち(焼け跡世代)が呪文のように米兵に投げかけた「ギブ・ミー・チョコレート!」という語は、米軍占領時代の世相を表す語となっている。

1946年には芥川製菓によってグルコースを原料にした代用チョコレート(グルチョコレート、グルチョコ)が製造された。カカオマスの代用品となるグルコースに、少量のココアパウダーとチョコレート色素を加えた物であった。

戦後の日本では、安価なものから高価なものまでさまざまなチョコレート菓子が販売されるようになった。特に1960年にカカオ豆の輸入が自由化され、続いて1971年にはチョコレート製品の輸入が自由化されたことで、様々な種類のチョコレートが流通するようになった。